2021.06.17 2024.11.19
  • 組織開発

「家訓」から学ぶ、企業の「〇〇〇〇」~歴史から学ぶ「7つの習慣」シリーズ③

最近TOKYO FMにてラジオ出演デビューしました、FCEトレーニング・カンパニーの大戸です。

​​​​月に1回程度出演しておりますので、ぜひご聴取くださいませ。

【目次】

私の弟の子どもたちである甥と姪から「ラジオ聴いたよ、伯父上はトップファシリテーターなの?」と、そこをいじってきたかというメールが届きました。

このように私は「伯父上」と呼ばせています。

これは大戸家の家訓です(笑)

今回は歴史上の「家訓」から「経営理念の重要さ」について学んでみます。

家訓=経営理念

さて、江戸時代は藩主である殿様が治めていた藩には、それぞれ「家訓」がありました。

今でいえば企業の「経営理念」といえます。

組織が目指す姿を表したものが企業における経営理念です。

200年もの間、その「家訓」を大切に守り抜いた「ある藩」の話を紹介します。

家訓がしっかりと根付いたその藩には一体感があり、幕府からも信頼されるようになりました。

そのため、その藩は明治維新により徳川幕府が終焉する際、一丸となって、幕府側の最後の砦となる偉大な働きをしたのです。(歴史好きの方なら、どの藩なのかここでもうお分かりですね?)

そう、その家訓を忠実に守り、歴史に名を残したのは今の福島県にあった「会津藩」でした。

会津藩の家訓第1条には、「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」とあったのです。

つまり、会津藩にはどんなことがあっても、藩主よりも「徳川将軍家=幕府」優先すべきであるという家訓があり、それを最後まで守りました。

動乱の中、時代の転換期ですから、「家訓」を無視して、新しい時代・新しい政府に流され自藩の生き残りを追及するという選択もできたでしょう。

しかし会津藩はその選択はしませんでした。

その理由こそ「家訓」であり、家訓がしっかりと組織に浸透していたためだったのです。

「経営理念が浸透した組織は一体感があり強いもの。」

まさに、このことを体現したのが、会津藩ですね。

2021年の現在、ありがたいことに「家訓を胸に戦に…!」なんて場面はありません。

でも、芯から強い組織を作るためには「『経営理念』が組織に浸透していて、一体感があることが大事」というのは現在の組織づくりにも通ずる大切な要素なのではないでしょうか?

もちろん、経営理念が立派でも、それが組織に浸透していなければただのお飾りです。

そして、その理念を打ち出すリーダー自身の人格に問題があれば、やはり組織に理念は浸透しないでしょう。

会津藩の家訓を定めた初代藩主である、保科正之のリーダーシップには今の世にも学ぶことが多いです。(保科正之については、下記にて解説しておりますので、ご興味ある方は、ぜひ、ご覧ください!)

人格の高め方やリーダーシップ、組織の理念浸透について学びたい思われた皆様は、ぜひ、弊社の「7つの習慣(R)」セミナーでお待ちしております。

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以上、大戸でした!

PS
会津藩の家訓ができた背景や名君、保科正之についてもう少し詳しく知りたい方は、ぜひ、下記の内容をお読みください!(少し長くなりますが…)

200年も続いた家訓の背景

なぜ、会津藩が幕府側の最後の砦となったのか。

その理由は200年前に遡ります。

2代将軍徳川秀忠は恐妻家といわれ、側室がいませんでした。

ただ、唯一隠し子がいたのです。

その存在を妻に知られないよう、信濃国2.5万石の保科家に預けられ、将軍の子であることを隠し、ひっそりと養子として育てられます。

隠し子は元服し「保科正之」と名乗りました。

その頃、秀忠の子である3代将軍徳川家光は実の弟である正之の存在を知り、可愛がるようになりました。

しかし、正之は保科家に育てられたという恩を忘れず、兄である家光にも徳川の家臣としてわきまえた振る舞いを崩しませんでした。

その姿勢により家光はさらに正之を信頼するようになります。

家光にとって最大の理解者であり最高の右腕となった正之は、会津藩23万石の大大名にまで出世しました。

正之は家光死後も、新将軍を補佐し幕府安定化に多大な貢献をしました。

さらに正之は人格の高さ故に家臣や民衆から名君と慕われ、61年の生涯を終えました。

正之は生前、自分の子孫である会津藩主に向けて『会津家訓十五箇条』を定めたのです。

その第一条に
「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない」記していました。

普通の家では殿様である藩主ファーストなのだが、正之は藩主より将軍家を優先せよ、と定めたのです。

これは大変珍しい家訓でした。

会津藩はこれを200年間忠実に守り幕末を迎えます。

最後の藩主である松平容保を筆頭に、幕府最後の砦となって勇猛果敢に誇り高く散っていったのは、藩祖の正之が自分を取り立ててくれた兄家光に対する恩義を返すためだったのです。

「あれ?保科家がいつの間にか松平家となったのはなぜ?」

と疑問に思われた方もいらっしゃるかもしれません。

保科正之は何度となく幕府から、徳川将軍家の旧姓であり親戚であることを示す松平性を名乗ることを勧められましたが
固辞し続けました。

保科家の恩を忘れないためだったと言います。

会津藩主が松平性を名乗り、あの「葵の紋」を使用し徳川将軍の親戚であると公的に認められるのは、正之没後3代目からです。

保科正之、どこまでも謙虚さと感謝の気持ちを忘れない人徳者です。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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